●2020年
患者さんと向き合うこと 北園 貴史
北九州へ来て2度目の春を迎えました。ついこの間この病院へ入職し働き始めたような気がする一方で、振り返ると様々な科で様々なことがあったなぁとも思える、不思議な感覚を覚えるこの頃です。今回「研修医のコーナー」への原稿依頼をいただき、特に強く印象に残っている患者さんの話をさせていただこうと思います。
私がその方の担当医となったのは4月下旬、腫瘍内科ローテート中のことでした。肝胆道系悪性腫瘍の70歳代の男性患者さんで、3次治療の化学療法を外来で行っていた方の発熱を主訴とした緊急入院でした。問診したり身体所見をとりながら問いかけたりするも「まあ悪くはないね。」といった返答が返ってくるのみで、気難しそうな人だな、という第一印象でした。胆道系の感染症を想定し抗菌薬加療を行うも発熱は遷延し、治療に難渋していた入院5日目、病室を訪問すると患者さんの奥さん、娘さんが見舞いに来られていました。次第に全身倦怠感、悪心などが増悪し、入院時より明らかに元気のない患者を目の前にした娘さんから、「父はどういう経緯で状態が悪くなってきたのか、今後どのように対応していくつもりなのか」について説明を求められました。当時の自分を振り返ると、その他の仕事にも追われていたとはいえカルテ上のバイタルや検査結果ばかりから情報収集し主治医の示した治療方針をその通りに実行することに終始しており、患者自身をしっかりみて状態を把握すること・今後すべきことを主体的に考えることができていませんでした。しどろもどろの私の説明を最後まで聞いた娘さんから、「私も父を支えるので先生ももっと頑張りましょう、担当の先生なんですから。」と逆に激励されてしまいました。自分の不甲斐なさに正直なところ落ち込みましたが、同期やレジデントの先生の励ましも受け、このままではいけないと改めて自分自身を奮い立たせました。
それからは、あまり返答がなくとも患者さんをよくみて状態を把握し、現在必要なことについて自分なりに考えをまとめ主治医と相談し、ご家族が来ている時は検査結果を逐一渡しながら現況と方針を詳しく説明するなど、当たり前のことではありますがそれまでできていなかったことに一層の熱を入れて取り組みました。結果として、この患者さんの入院してからの経過は誰よりもよく把握している、と自信が持てるようになり、ご家族とも少なからず信頼関係を結ぶことができたように思います。ただ、患者さん本人は原病の進行により状態が悪化の一途をたどっており、次第に私が訪問してもきつそうに目を閉じたままほとんど返事をしてくれなくなりました。そして入院7週間目に化学療法の継続は困難と判断、BSCの方針となりました。
対症療法を続ける中、私の腫瘍内科ローテーション最終日となりました。積極的に診療へ参加したつもりではあるものの患者さん自身の期待にはあまり応えられず、いい担当医ではなかったな、と思いながら最後の挨拶に向かいました。相変わらずほとんど反応のない診察を終え、最後に今日が担当最終日であることと感謝を伝えました。するとすぐに、患者さんは驚いたような表情で目を開きました。久しぶりに見るその目は大きく開かれ、少しの沈黙の後に「世話になったね。」と一言かけてくれたのでした。
その数日後患者さんは緩和病棟へ移り、7月に息を引き取られました。出棺の前にご家族とお会いできた際に教えていただいたのですが、私が最後の挨拶を終え病室を去ったあと、ご家族へ「あの先生はよく診てくれた、担当で良かった」と語ってくださっていたそうです。
この一連の出来事からもうすぐ1年が経ちますが、今でも時折この方のことを思い出し、気持ちを新たに診療へ携わることができています。この先どんな道へ進んでも、最後に「この人でよかった」と思ってもらえる医師でありたいと思っています。
AN UNDERDOG JCHO 川端 和夫
On August 20, 2012, a 45-year-old woman was shot and killed at Aleppo in Syria. Her name is YAMAMOTO Mika. She was a journalist of freelance from Japan. She thought that one of the missions of journalists was to report the situation of people suffering from wars or conflicts to the world and deter the authorities from escalating the situation by evoking the pressure of public concern. She had an abundant experience as a journalist at the battle fronts and dispute places of all parts of the world, such as chaotic Afghanistan and the battlefield of Iraqi war. After the tragic event, I saw her father interviewed by journalists on TV. He answered questions from reporters carefully and sincerely. Then he got upset at a question and burst into tears without being able to control his feelings. After a while, however, he managed to control his feelings and began to explain the fatal injury that brought his daughter to a sudden death. At that moment, when I saw his sincere attitude, I suddenly wanted to help people suffering from wars or conflicts as a doctor. I did have such a wish without any specific reasons. I started my business career at Nomura Securities. Then I looked for opportunities to improve my career and worked for Japanese subsidiaries of several foreign financial institutions: Swiss Bank, ACE Insurance, and VISA. In 2007 I became a vice president of MasterCard Japan at 42 years old and that was the peak of my business career. I suffered severe depression. I had completely lost my ability to work as a businessman from the refractory disease. I had to quit MasterCard. Thereafter I was fired in only three or four months repeatedly five times even if I found employment with great difficulty. I was an underdog.
Finally, I could continue to work for three and a half years as a dispatched private teacher in the evening while helping my mother’s liquor shop during the daytime. Fortunately, a chance of the second challenge was given to me. I got qualified as a doctor in 2019. In the near future, I want to go to an area lacking medical resources due to a conflict or economic and/or political confusion and help people who cannot have an enough medical treatment. By doing so, I hope, I could repay those who supported me of an underdog for their kindness even a little. À moins que je ne sois prêt à aider des gens en difficulté, je ne mériterai pas d'être en vie(困難の中にある人を助けずして、我生きる価値なし).